日本戦車開発物語 : 陸軍兵器テクノロジーの戦い [PDF]

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日本戦車開発物語 : 陸軍兵器テクノロジーの戦い [PDF]

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Japanese Pages [409] Year 2003

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光人社文庫 ノンフ1"クシ3 ン



日本戦車開発物語 陸軍兵器 テクノロジーの 戦い



土 門 周 平



光人社



陸 軍 中 将 .原 こ 未 生 。 陸軍兵器技術の中枢として重責を担い、 日本の戦 車開発に従事。 その間、数度にわたり欧米の地に遊び、 最先端テクノロ ジーに触れる。 また、戦車連隊長として最前線を彷徨。 陸士27期 、重砲 兵科首席卒。 写真右下は見習士官当時。左は東京帝大工学部機械科の員 外学生の頃。 下は砲工学校普通科卒業にあたり記念撮影、 前 列 右 2 人目



ルノー戦車と原大尉。 新 兵 器 「 戦 車 」 の登場に際し、陸軍では必要最小 限の訓練用ルノー戦車を輸入、装備戦車は国産!1"「 開発することに決した



三 菱で完成、試運転にのぞむ八九式戦車一号車—— 上海事変での八九式 戦車の事故を契機に、 デ ィ ー ゼ ル エ ン ジ ン の 開発に取り組むことになる



昭 和 5 年 3 月からロンドン駐在となった原少佐は、昭和6 年早々、米国 経由、帰国の途についた。写真はデトロイトのフォード飛行^工場にて



昭和10年 10月東京発、大島軍事視察団の一員として原中佐は欧州に出張 した。 写真は昭 和 11年の 正 月 、大 島 武 官 邸 に て。 左端に 宫 野 少 佐 、 1 人 おいて前列の眼鏡が菅中佐、 1 人おいて原中佐、 その右後方に大島少将



部以 ち い パ ‘ : へ







.



.



^



ウェンスドルフの戦車蕋地を訪れた大島軍事視察団のーイ亍—— 前列中央 の大島浩団長の右後方に原中佐。 前列左端が原と同期生の藤室良輔中佐



第二次大戦下の実情を把握すべく、 山下奉文航空総監を団長とする視察 団が派遣され、 原少将も随員として独伊に出張した—— 写 真 は 昭 和 16年 1 月3 1 日、 ヒトラーに謁見する山下中将、 岡本清福少将、綾部橘樹少将



















^ ね







3 ^ ^ ; : ’^ 雜



I



雄 誌 「パンツァー」 より



鉄 牛 の 試 走



ディ丨ゼルの響き



北満 の 砲兵実験



本 朝 「装 甲 車 」事 情



八九式戦車の初陣



若き 大 尉の船出



軍縮の嵐の中から



「海 外 留 学 ヲ 命 ズ 」



第二部



無限軌道のメッセージ



第ー号戦車の発進



試行錯誤の日々



国産 戦 車の鼓動



技術 士 官候補生



33



第 一 作 「九 五 式 軽 戦 車 」



92 184



79



4 8



67 129 160



117 105 147 135 172



5 6



197



第三部



シベリア鉄道諜報旅行 大島軍事視察団 ドィツ再軍備の秘密 222 2 3 3 3 3 4



陸軍近代化への試案



軍司令官との会談



傑 作 戦 車 「チ ハ 」の 産 声



第四部



戦車第八連隊長 北 支 転 戦 譜



連隊長の作戦手腕 戦 ぅ 鉄 牛 部 隊



ノモンハンからの悲報



勝利の美酒と涙



愛しきものとの惜別



2 5 8 2 8 4



2 0 9 2 6 7 3 0 9



2 7 2



245 321



2 9 7



山下独伊視察団



第五部



対米戦への秒読み 日米戦車戦の暗雲 軍都ヒロシマの悲劇



3 8 4



3 4 3



第四陸軍技術研究所長 3 9 6



360 3 7 2 4 1 1



日本戦車開発物語



文 庫 版 の あ と が き



あ と が き 409



陸軍兵器



写 真 提 供 / 伊 藤 潔 .佐 山 ニ 郞



テ ク ノ ロ ジ ー の戦い



3 3 鉄牛の試走



第一部



鉄牛の試走 1



東名高速自動車道を飛ばして、 山北あたりから美しい山並みにチラチラ目を向けている間



に' た ち ま ち 通 り 過 ぎ て し ま う 御 殿 場 と い う 町 も 、 こ の 物 語 り の 始 ま る 昭 和 ニ 年 ご ろ は 、 ま



番 I 列車が



富 士 登 山 の 玄 関 で あ る 「御 殿 場 ロ 」 と 、 温 泉 地 箱 根 へ の 裏 口 に な っ て い る の で 、 日 中 の 時



だ丹那トンネルが開通していなかったので、東海道本線の重要な駅であった。



間 带 に は け っ こ う 乗 降 客 は 多 か っ た 。 が、 い つ も は ま だ 人 影 も ま ば ら な 、 上 り の



小山から三島に行く街道( 現在のニ四六号線) へ の 出 口 や グ ミ 沢 の 四 ッ 辻 に ま で 、 軍帽の



出たばかりという早朝に' この日は、 駅の周辺は物々しい警戒幕がはられていた。



富士山麓に大きな演習場がある。 そのため天皇陛下や宮殿下が御殿場駅をょく利用される



アゴ紐を下ろした憲兵が立哨している。



ので、 町 の 人 々 は 警 戒 に は 慣 れ て い た 。 だが、 こ の 日 昭 和 ニ 年 六 月 二 十 日 の 朝 は 、 少し様子



34



普段はあまり人の寄りつかない貨車引き込み線の周辺に、異常な人だかりがしているので



が違っていた。



あ る 。 作 業 衣 を 着 た ニ 0 人 ほ ど の 男 た ち が 、 ス ッ ポ リ と シ 1-^を か け た 一 台 の 無 蓋 貨 車 を か 「作 業 始 め ま す 」



こんでいた。 陸軍技術本部の職員たちであった。



と い ぅ声が、思わず漏れる。



日本陸



先 任 の 今 村 貞 治 大 尉 が 、 輸 送 指 揮 官 和 田 忠 大 佐 に 挙 手 の 敬 礼 を し な が ら 言 っ た 。 傍に立っ



ロ — プ が は ず さ れ 、 大 き な シ 1-^が 除 か れ た 。



て い た 原 乙 未 生 大 3对 1 、 腕 時 計 をチ ラ と 見 て 記 録 簿 に 書 き 込 ん だ 。 時 〇 分、 卸下開始。 雇員たちが敏捷に動いて、 たちまち



——



「お お 」



軍 が 初 め て 作 っ た 「試 製 第 一 号 戦 車 」 が 、 そ の 全 容 を 現 わ し た 。



この諸元は、五 〇トン級の現代戦車を見 な れ た わ れ わ れ の 眼 か ら す れ ば 、 小さなものだが、



主ト 砲ル 五' 七ミリ短加農 全 長 六 -〇 三 メ ー ト ル ' 幅 ニ .四 メ 1-^ル 、 高 さ ニ -七 八 メ —



こ と を考



える



と 、初めて見る者は思わず眼を見張るほどの驚異であった。



日本自体がまだ満足に貨物自動車も作れない程度の技術水準しかなかった'大正末期から昭 「パ ッ テ リ ー の 点 検 が 終 わ っ た ら 、 主 燃 料 槽 に ガ ソ リ ン 入 れ 」



和初期の



今村大尉が、作業の進み状況を見ながら指示する。 咲山治三郎技手が、ニ〇リットル缶を 陸軍技術本部車両班七名の職員を中心に、全員がー团となって働くので、 たちまち基礎作



両手に戦車に近づく。



3 5 鉄牛の試走



業が終わる。



今村大尉の号令に、あらかじめ打ち合わせていたとおりに原大尉が車長、上西甚蔵技師が



「乗 員 定 位 に つ け 」



「乗 車 ! 」



V



型 八 気 筒 水 冷 ガ ソ リ ン 一 四 〇 馬力は



操縱手、 咲山技手が砲手、中世多助雇員が通信手兼装填手の位置についた。



七〜八回空転して、ゴーッとエンジンがかかった。



「エ ン ジ ン 始 動 ! 」



思 え ば 、 こ の エ ン ジ ン は 原 大 尉 が 、 火 砲 班 兼 務 を し て い た 中 尉 の こ ろ 、 一五センチ加農自



快調である。



た。



走砲のために設計試作したエンジンである。当時、三〇 馬力エンジンが日本では最大であっ



い た '



原は'命ぜられるままに、東京帝国大学の機械工学科で学んだすべての知識を凝縮して、



試作段階でストップして



力月 で 新 戦 車 を 急 速 開 発 し ろ 、 と い ぅ 要 求 が 出 て 、 急 遽 転 用 さ れ



は まだ早い、 と い ぅ横槍が入って、



一四〇 馬 力 を 設 計 し 、 大 阪 造 兵 工 廠 で 試 作 ま で 完 成 し た の で あ る 。 と こ ろ が 、 「自 走 砲 」



こ の 一 四 〇 馬 力 が 、 一年九



事情を十分承知している操縦席の上西技師は、 エンジンの回転をニ0 〇0 から三〇〇〇と



そ ん な い き さ つ も あ り 、 ゴ ー ッ と 平 滑 に 回 転 す る そ の 響 き は ' 原 大 尉 に と っ て は 、 まった 心地よいものであった。



たのである。







36



原大尉。調子いいですね。



逐次上げる。 ともに喜ぶ上西技師の気持が、 回転数の変化で伝わってくる。



——



貨車に戦車を固定していた枕木が全部取りはずされた。 今村大尉が、 一般の通路の方への出口に、 両手を高く上にあげて立っている。 準備よけれ ムに前進 さ せ よ ' と い う意味で あ る 。



原大尉は、左右を見渡した。万一、戦車が貨車からすべり落ちても、 人員に危害はない。



ば 、 貨 車 か ら戦車を プ ラ ッ ト ホ ー



「前 へ ! 」



安全を見定めて、原大尉は一呼吸して怒鳴った。



る た め、



乗員相



そ う 言いながら、上 西 技 師 の 背 中 を 戦 車 靴 の 先 で 、静かに 押 し た 。 後年のよ う に 、戦車内 の通話装置が完備して、快適に話せる時代ではない。戦車内の轟音を克服す



互が押したり、 叩いたりする要領を申し合わせて、意志を疎通させる時代だった。 ギ ア が 入 っ た 。 前 進 六 段 、 後 退 ニ 段 の 変 速 機 が 、 コトッと第一速に入り、 エンジンの回転



移ったはずだが、原大尉は上下動を感じない。



音 に 比 例 し て グ ッ と 動 き 出 す 。 ク ラ ッ チ の 作 動 も い い 。 左 前 方 の 履 带 が 、 貨 車 か ら ホ — ムに



^向 よ し 。 そ の ま ま 前 進 。



今村大尉は、両手を上にあげて'なめらかに前後している。



あとの細かい操作は上西技師の操縦技術を信頼するだけである。 原大尉は、気持が楽にな



--



った。 御 殿 場 駅 の 荷 物 扱 い 広 場 の 出 入 口 の 門 柱 を 先 頭 に 、 誘 導 任 務 の サ ィ ド 力 ー 、 関 係 者 用



3 7 鉄牛の試走



列 I にならんでいた。



今村大尉は、広場の中央まで来た試製戦車の原大尉に停止を命じた。



乗用車がニ台、部 品 工 作 車 、燃 料 用 貨 車 ニ 台 が



「か ね て か ら の 乗 車 区 分 に ょ り 、 乗 車 ! 」 と ' 彼 は 大 声 で 全 員 に 向 か っ て 怒 鳴 る と 、 和 田 大 佐に敬礼した。



大佐は乗用車にのった。今村大尉は駆け足で先頭のサィドヵーにとび乗った。総員の乗車



たかだか戦車一台を作る



お け る圧倒的な技



を確認すると、巻いて持っていた三色の指揮官旗をひろげて、黙って前に倒した。



七時五十八分、御殿場出発。



試製第一号戦車の公開試験地板妻地区に向かぅ、前進の開始である。



原大尉は砲塔から頭だけ出しながら、記録簿にそう書いた。



——



す る と '



現在のょうに世界第一の自動車生産の実績を持ち、 ハィテクの各分野に



のに、 そ ん な に 努 力 が い る の か 、 と い う 疑 問 を 持 つ の は 当 然 で あ る 。



術 力 を 誇 る '日 本 の 産 業 界 、 経 済 界 の 実 力 を 知 る 立 場 か ら



だが、前にも触れたとおり'大正末期の日本の工業界は、後進国の域を脱していなかった。



具 体 的 な 例 と し て は 、 第 一 次 世 界 大 戦 ニ 九 一 四 1 一九一八年) の フ ラ ン ス を 中 心 に 連 合 国 観 戦武官として、 つぶさに見て き た陸 軍 の 俊 材 の 人 | 、 酒井鎬次中佐の帰朝報告が あ る 。



酒井中佐の目にうつった第一次世界大戦は、膨大な物量、と く に 火 力 ( 砲兵力) の集中使



38



用 と 諸 兵 種 の 統 合 運 用 の 見 事 さ で あ っ た 。 日 本 は 果 た し て 欧 州 戦 場 で 実 施 さ れ た ょ う な 「現 消耗、損失という こ と を 、



ま っ た く 意 に し な い 「消 耗 戦 」 の 思 想 。 日 本 陸 軍 の 動 員 力 は 、



代戦」 に対処できるのであろうか。



き る工業力はあるのか。



仮 り に 「人 」 の 面 で 間 に あ っ た と し て も 、 ど ん ど ん 消 耗 す る 兵 器 、 あ と か ら あ と か ら 製 造 し 酒 井 中 佐 は 、 た ん ね ん に 日 本 の 工 業 力 を 調 査 し た 。 特 に 大 戦 末 期 に 戦 場 に 顔 を 出 し た 「戦



て、 第 一 線 に 補 充 で



が 国 の 工 業 生 産 力 は 、 欧 州 大 戦 規 模 の 消 耗 戦 に ' 軍 が 何 ら か の 措 置 を 講 じ な い 限 り 、 たえら



車」 という新兵器を、 日本の陸軍は、 どう取り組むべきなのか。結論は悲観的であった。 わ



れない。特に工作機械部門における冶金技術が飛躍的に改善されない限り、 ほとんど中期的 な戦争遂行は不可能に陥る危険がある、 というものである。 ま た連合して随時随所に陸海軍の特



つ い で に 触 れ て お く が 、 こ の 酒 井 帰 朝 報 告 の 「組 織 論 」 の と こ ろ に ' 現 代 戦 争 遂 行 論 の 立 場から組 織 を み る と 、 戦 況 に即応して、各 国 は 独 立 し 、



色 が 発 揮 し や す い ょ う に 部 隊 を 編 成 し て い る 。 が、 こ の 問 題 は 、 日 本 で は 憲 法 上 の 問 題 に 関 係 し て く る の で 、 こ れ 以 上 の 考 究 は し な い こ と に す る 、 と、 陸 海 空 軍 の 統 合 問 題 を 打 ち 切 っ



はからずも、 それから二十年後の太平洋戦争で、 日本側の敗因の一つともいわれる陸海軍



ている。



ハ ィ テ ク王 国 日 本 の 隆 盛 は 、



これではいかんと貧弱な工業力に気がついた日本が、



統合問題を、 明治憲法に触れるという理由で、 この時点で考察を中止しているところに、何 現在の



か宿命的なものを感ずる。



3 9 鉄牛の試走



国 Iの 工 業 力 の 象 徴 で



ハ ィ テ ク の現状を



い う窮



日本が



こ と に大きな原 因 が あ る 。



細 か く追うことは、



ことは、 そ の 国 の



家がその国で自力で戦車と



「戦 車 」 開 発 の 経 過 を



る か ' ど う か 、 と い う



見 る こ と に な る 。国



あ る



戦 前 、戦 中 、戦後を通じて、人材と資金を苦心して集中、投 下 し た したがって、



ことができ



る ほ ど の意味が あ る の で あ る 。







世界的な現在の水準に到達した原因を 極の兵器を、製造す 判 断 す る物 差 し に な



X



そんなに



一 つ の ス テ ータ



み る と い い 。



国家の



たって



なので



あ る 。



た く さ ん はないので あ る 。



戦車を自国で生産で



一九九〇 年 の 現 在 に お い て も 、 世 界 中 で ど の 国 と ど の 国 と が 、 自 力 で 戦 車 を 作 れ る の か 、 と い う こ と を当 き る と い う こ と は



この問題の帰趨を簡単にふれておこう。



何 度 も 触 れ て い る よ う に ' 大 正 末 期 の 「軍 用 自 動 車 」 は 、 四 ト ン 自 動 貨 車 と 称 す る も の が



唯 一 の 制 式 車 両 で あ っ た 。 大 阪 砲 兵 工 廠 の 製 作 で 、 積 載 量 一 .五 ト ン 、 全 備 四 ト ン 、 最 大 時



自動車工業は精密な工作技術で、 一般の工業より一段とむずかしいと考えられていたし'



速 ニ 四 キ ロ 、前照灯 は ア セ チ レ ン 灯 と い う し ろ も の で あ る 。



民間の需要はまだまだ低調で'採算の点からも企業化が困難な時代であった。



政府から半額の補助金を出して生産させる



し た 会社



と い う制度で あ る 。



そこで軍は、大正七年に軍用自動車補助法を制定した。有事の場合には、 軍用に転用する と い う こ と を条件に、



この趣旨に賛同して、登録資格を得た民間会社は約十社であるが、実際に生産を



は ゝ 石 川 島 自 動 車 製 作 所 又 ミ ダ 車 ^ 東 京 瓦 斯 電 気 エ 業 于 ^丘 車 べ ダ ッ ト 自 動 車 製 作 所



40



半額を政府が補助するという好条件なのに、 たった三社しか自動車を生産しないという、



( ダット車) の 三 社 に す ぎ な か っ た 。



三社の中でも石川島自動車が一番積極的で、イギリスのゥーズレー自動車と技術提携を結



現在から見ると夢のょうな話である。



いたが、 大 正 十 二 年 の 関 東 大 震 災 で 設 備 が 潰 滅 的 打 撃 を う け て し ま っ た 。



んで、 工場を整備中であった。関係者は完成したら相当な生産能力が期待できると期待して



自動車工業が、 こういう状況なので、戦車を国産するということに誰も確信はなかった。 一方、 運 用 的 に は 第 次 I 大 戦 の 結 果 、 戦 車 の 地 上 戦 に お け る 有 効 性 に つ い て は 疑 い な い 。 一 日も早く、 日本の陸軍にも取り入れるべきだ、 という声が高い。 そ こ で 陸 軍 中 央 部 は 、 「と り あ え ず 外 国 か ら 輸 入 し た ら ど う か 」 と い う 考 え 方 に な っ た 。



なった。



戦車から丁



戦車に至る戦車王国ソ連機甲部隊の



ク リ スチーが有名で、車輪と無限軌道を併用する高速戦車の構想は、



当 時 の 陸 軍 科 学 研 究 所 長 緒 方 勝 一 中 将 を 長 と す る 「戦 車 購 買 団 」 が 欧 米 に 派 遣 さ れ る こ と に



当時、 アメリヵでは



後年、 ソ連がその見本品を輸入して、 ク リ スチー自身は設計者であって、



中戦車は、 日本側としては最



固 有 の 工 場 を 持 っ て い な い 。 したがって、供給能力の



I



初 か ら 「お 目 当 て 」 の 戦 車 で あ っ た 。 だ が 、 会 社 側 の 説 明 で は 、 イ ギ リ ス 陸 軍 戦 車 隊 の 要 求



イギリスでは、 ヴイツヵ— ス社と接触した。 同社のマーク



点で不確実であった。







母 体 に な る の で あ る が 、 日 本 の 購 買 団 が 接 触 し た こ ろ は 、 ま だ 具 体 化 し て い な か っ た 。 それ



34



4 1 鉄牛の試走



日英同盟の打ち切りが



と り ざ た さ れ はじめ



こ と も ' まだできない状態なので' と て も日本の要求を引き受ける余裕はない、



と い うことであった。 ア メ リ カ側の外交工作で、



を満足させる



ている時期である。 次期主戦兵器である戦車の譲渡など、所詮無理な注文であったのかも知



フ ラ ン ス は 、 少 し 違 っ た 空 気 で あ っ た 。 戦 後 の 新 式 戦 車 は ま だ 開 発 さ れ て い な か っ た 。 が、



れない。



一般の商談と同じで、 ウ マ ィ 話 に はかならずウラがある。 このときの購買団の判断は適切



大戦型のルノーは在庫が豊富'喜んで日本側の御要求に応じょう、 というのである。







第一次大戦型の戦車が、 そのまま将来の戦場で使われるか。 技術の進歩と運用思想の考



であった。 その理由は、



察 '変 化 が あ る は ず 。 ルノーの時速八キロは、 どうみても時代遅れではないか。 設計段 階 だ が ' クリスチーが 三0キロを出すといっている時代である。







応 I 、東 京 の 陸 軍 省 に 請 訓 電 を 打 っ た 。



そ れ を う け て 陸 軍 省 は 、 陸 軍 技 術 本 部 長 に 「戦 車 購 入 に 関 す る 意 見 」 を 正 式 に 諮 問 し た 。



以上の理由で購買团は消極的であったが、



技術本部では、 かねから商品としてすでに存在するものを探して、それを交渉するという



行き当たりばったりの買物をしょうという購買団の行き方に不満を持っていた。



そ こ で 、 「訓 練 用 と し て 必 要 最 小 限 の ル ノ ー 戦 車 を 輸 入 し 、 陸 軍 新 戦 車 隊 の 装 備 戦 車 は 、



この答申は、 日 本 の 陸 軍 史 を 見 て 行 く 上 で 、 き わ め て 重 要 な 意 味 を 持 つ も の で あ る 。 当時



国産戦車をあてるのが適当である」 という正式の答申をした。 .



42



の陸軍技術本部長は、 鈴 木 孝 雄 大 将 で あ る 。 終 戦 時 に 内 閣 総 理 大 臣 を つ と め 、 日本を破滅か ら救った鈴本貫太郎海軍大将の弟である。 こ の 鈴 木 答 申 の 結 果 、 当 時 の 陸 軍 大 臣 宇 垣 一 成 が 、 大 正 十 四 年 三 月 十 八 日 に 「戦 車 整 備 方 針」を決裁した。



こ と に し よ ぅ 。



一部の重戦車( 概ねニ〇



軽 戦 車 ( 概 ね 一0 ト ン 以



陸軍の公式文書であるから、固い文章であるが、その後の方向を決める重要文書であるの



し て



し む る 為、



え 、爾 後 教 育 用 軽 戦 車 の 整 備 に 伴 い '各種



之に研究用と



車の整備は、平時部隊の教育を便なら



で、 原 文 を 掲 記 す る る戦



し て英国製中型戦車に類するもの)を 加



し て仏国製ルノー戦車に類するもの) を 先 と し 、



『将 来 に 於 け 内に



研究用戦車に及ぼし、其結果に基き逐次作戦用戦車の整備に着手す』



トン以内に



この試製第一号戦車の誕生物語で、 ぜひ触れておかなければならない基本問題がある。 そ



日本は日露戦後、 ロシアの報復にそなぇて陸軍の拡張をはかった。第一次大戦では連合国



れ は ' 「戦 争 と 軍 縮 」 の 問 題 で あ る 。



ところが戦争が終われば不景気になる。 反戦思想なども次第に激化して'膨大な予算をく



側にたって、青島などを攻撃して、五大強国の一つ、 と言われるほどとなった。 ぅ軍備の縮小を望む声が、次第に表面化してくる。 これは歴史の必然である。 この傾向は、



4 3 鉄牛の試走



日本の場合は、もう一つ条件が加わった。 それは帝政ロシアの崩壊である。今までの仮想



洋 の 東 西 、時 の今昔を問わない。



つたのだから、 日本の防衛費はへらすベ



え方。 共産主義 労 農 政 権 が で き た と い っ て 、 即座に戦争できるような軍事力を持つことはな



敵 国 が な く な っ た の だ か ら 、 対ロシ ア 作 戦 の た め の 軍 備 は 、 なくてもいいだろう、 という考



ペ レ ス ト ロ ィ カ と い う政策を と る よ う に な



いだろうという考え方。



と い う考え方と同じで あ る 。



ソ連が



一九九0 年 代 の 現 在 と 、 一九二〇 年 代 の こ の 頃 と 、 人 間 の 知 恵 と い う も の は 、 そ れ ほ ど 違



きだ、



この軍備の世界的風潮と、 日本の政治情勢から' 日本の陸軍は軍備を縮小しなければなら



っていない。



な く な っ た 。 ま ず 目 標 に な る の か 「軍 事 予 算 」 で あ る 。 湾 岸 戦 争 で は 多 国 籍 軍 を 支 援 す る 九



0 億 ド ル の 財 源 と し て 、 ま ず 防 衛 費 か ら 1000億 円 抽 出 す る こ と が 決 ま っ た 。 ま っ た く 同 じ発想である。



万 I 三 〇 00頭 を 整 理



す る と いう



、 ほぼ陸軍五コ師団に相当す



る縮 減 を 敢 行



大 正 十 一 年 ニ 九 ニ ニ ) の時点では、 山梨半造陸軍大臣は、 予 算 を 削減するため、将校以 下約六万名、馬 した。



お と ろ え な い 。



さ ら に必要になった。



一年後の大正十二年にも、 一部の軍縮が行なわれたが、 軍縮を要求する声は



そんな情勢の中に、前に触れた関東大震災が起きた。災害復興資金が



そ こ で 大 正 十 四 年 五 月 、 時 の 宇 垣 陸 相 は 四 コ 師 団 を 廃 止 し た 。 こ の 軍 事 力 の 大 削 減 に 、 軍側



44



の必死の対策が講じられた。



陸軍自力の 画期的な措置であった



す る と い う思い切った処置で経費を 捻 出 し 、



そ の 対 策 の 目 玉 が 、 「戦 車 」 だ っ た の で あ る 。



き たわけでは な い 。



う体質改善をはかろう、 と い う陸軍軍政史上、



宇 垣 軍 縮 が 、常 設 四 コ 師 団 を 削 減 枠 内 で 「近 代 化 」 と い が、 ス ン ナ リ と 移 行 で こんな記録がある。



大 正 十 三 年 七 月 、 一応の結論を得た陸軍は、 元 帥 '軍事参議官会 同 を 開 催 し て 、 その案を



上原勇作元帥、福田雅太郎'尾野実信、 町田経宇の各大将は、陸軍省案に強硬に反対した。



審議した。



立す



ょ う と し た宇垣の判断は、



現在の視点からすれば、適確な英断



あ る 。



る こ と は 、 し ば し ば あ っ た が、 最 高 政 策 が



宇 垣 陸 相 は '議 長 で あ っ た 奥 保 鞏 元 帥 に 迫 り 、多 数 決 で 決 め る こ と と し た 。結果は 五 対 四 。 辛うじて原案が通った。 タ テ社会で派閥意識の強い陸軍で あ る 。対



数を減らして、質を改善し



「多 数 決 」 で 決 め ら れ た と い う こ と は 、 異 例 中 の 異 例 で



という評価が与えられるが、当時、宇垣は軍部内から恨みを買うことになる。 宇垣の狙いは三つあった。



日本陸軍の航空部隊は、 このときはじめて独立した兵科となった。航空本部が創設され、



第一は航空部隊の拡張、強化。



4 5 鉄牛の試走



航 空 大 隊 は 従 来 の 六 コ 大 隊 に ニ コ 大 隊 が 増 設 さ れ 、 合 計 八 コ 大 隊 に な っ た 。 部 隊 も ' 大隊か ら連隊と改称、格上げされた。



戦車隊一隊と歩兵学校教導隊に戦車隊ーコを創設した。防空力強化のための高射砲ーコ連



第二は陸軍の機械化、近代化。



隊創設。 砲兵部隊に砲兵情報班、 それとの関連で陸軍通信学校の創設。機動力向上のための 第三は火力装備の強化。



陸軍自動車学校の創設等、近代化組織のための基礎確立。



軍の主兵という誇りにみちた歩兵部隊に、軽機関銃が交付され' 火力支援のために平射、



を 大 改 革 し 、 「戦 闘 群 戦 法 」 と い う 軽 機 関 銃 を 中 核 と す る 攻 撃 要 領 に 、 日 本 の 歩 兵 が 脱 皮 す



曲射歩兵砲が、 編制内に組み込まれた。軽機関銃の交付は' 日露戦争当時の横隊戦術的用法



だが、 思想のちが い と い う も の は 怖 い 。 この宇垣原案も、上原勇作元帥のょうな日露戦争



るための第一歩であった。



型 の 陸 軍 長 老 連 に と っ て は 、 「政 府 に 迎 合 し た 生 ぬ る い 」 も の で あ っ た の で あ る 。 そ れ で あ



つの時代でも、 改革しょうとすれば、 その世界の長老たちと戦わねばならないことを物語っ



ればこそ、前述の元帥、軍事参議官会同の席上で、意見が真っ二つにわかれたのである。 い ている。



46



さ て 、 こ の あ た り で 宇 垣 軍 縮 の 狙 い の 第 二 項 「陸 軍 の 機 械 化 」 に つ い て 、 そ の 現 状 を 説 明 そ も そ も 日本の陸軍が、初 め て 戦 車 を 手 に し た の は 、第一次大戦の終わった大正七年であ



しておかなければならないだろう。



る。



大 正 五 年 (一九二ハ) 九 月 十 五 日 に 、 西 部 戦 線 ソ ン ム の 戦 場 に 出 現 し た も の と 同 系 列 で 、



前 に 触 れ た 「タ ン ク 」 購 入 の た め 欧 州 に 派 遣 さ れ た 軍 用 自 動 車 調 査 委 員 会 の 水 谷 吉 蔵 大 尉 が購入した 英 国 製 マ —ク 代 型 重戦車が、横浜港 に 到 着 し た 。 菱形の奇妙な形を埠頭で見た人々は、



マ ー ク 汉 型 の 主 要 諸 元 は 、 全 備 重 量 二 八 .四 五 ト ン 、 全 長 八 メ 1-^ル、 全 高 ニ -四 五 メ ー



「あ れ は 、 何 だ 」 と ' ち ょ う ど ソ ン ム の 塹 壕 で ド イ ツ 兵 が 叫 ん だ と 、 同 じ 言 葉 を 口 に し た 。



とりあえずは、 大正七年十二月に創設した輜長兵学校の自動車隊の所属とし、 軍務局長を



トルという、当時としては大きなものだ。



つ い で イ ギ リ ス 製 ホ イ ペ ッ ト 八 型 戦 車 ニ 四 .ニ 三 ト ン )、 フ ラ ン ス 製 ル ノ ー 卩 丁 型 軽 戦 車



委 員 長 と す る 「自 動 車 調 査 委 員 会 」 で 研 究 さ せ る こ と に ^^た



( 六 -六 ト ン ) な ど が 到 着 し た 。 創成期のことなので、歩兵も騎兵もまずこの自動車隊で、自動車の操縦方法から習う、 と いった態勢で行なわれた。 これらの輸入戦車にょる各種地形の運行試験も、鉄条網その他の障害物突破の要領も、自 動 車 隊 に 設 け ら れ た 軍 用 自 動 車 調 査 委 員 会 の 「試 験 班 」 が 中 心 に な っ て 行 な う 態 勢 が と ら れ



4 7 鉄牛の試走



た。 と い う考え方である。



戦車は、自動車技術を基礎に発展したものであり、戦車の操縦も自動車操縦の延長上にあ



当時、 日本の陸軍で自動車の取り扱いができるのは、輜重兵であるから、 陸軍からイギリ



る、



筆者の経験でも、最近の湾岸戦争の主役であったアメリヵ陸軍の



1八 1戦 車 が 試 験 段 階



ス へ 戦 車 の 勉 強 に 派 遣 さ れ た の は 、 "輜 重 兵 " の 水 谷 大 尉 だ っ た わ け で あ る 。



あ る 。



こ と を何 回 か聞かされた。 自動車の知識が戦 車 の 知 識 の 基 礎 に な る 、



も前 に



触れた



と お り



「追 い 風 」 で あ っ た 。



という考え方は'



第一戦車隊( 久 留 米 、 長 .大 谷 亀 蔵 歩 兵 中 佐 )。 ホ イ ペ ッ ト 八 型 三 両 、 材 料 廠 ー 〇



千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊( 長 .三 橋 済 歩 兵 少 佐 )。 ル ノ ー 卩 丁 型 五 両 、 ホ イ ペ ッ ト 〇 八型三両



大正十四五月一日付で編成が完結した陸軍戦車部隊の誕生の姿は、 つぎのとおりである。



ては、 これ



こ の 段 階 で 既 述 の 陸 軍 軍 備 整 理 と い う 行 政 上 の 大 改 革 に 遭 遇 す る の で あ る が 、 戦車にとっ



とになつた。



大 正 九 年 に 、 そ れ ま で の 体 系 を 一 部 変 更 し た 。 ホ イ ペ ッ ト